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福岡市の歴史的スポット: 亀井家の墓とその背景

業務改善&組織変革
チホズ スタジオ(Chi-ho's studio)
産業カウンセラーの鎌田千穂です。

子ども時代に見逃していた歴史的場所

関心さえ起こらずに、齢重ねたシリーズ第二弾です。

子どもの頃から何度も通り過ぎていた場所。
しかしその重要性には気づかずにいました。
歳月が流れ、改めてその歴史的な意味に気づくことができるのは、人生の面白い部分の一つです。

前回の訪問先と今回の発見

前回は「食は腹八分目」という教えで知られる貝原益軒先生の墓所を訪ねました。

今回は福岡市中央区の地行バス停前に位置する亀井家の墓に注目。
貝原益軒先生の墓所から明治通りを挟んで向かい側にあります。

ほんと、目と鼻の先に文化財があるのです。

亀井家の墓がある場所

この亀井家の墓は、浄満寺境内にあります。
通勤中のバスでの移動は、寝ながらだった20代の頃と違って、今ではスマートフォンで仕事をしながらの移動です。

おもむろに窓の外に目をやったときに、あるなぁと思ってはいたものの調べるほどにいたっていなかった。

お陰で、子どもの頃は西区だった場所が半分になり、早良区と命名した背景を知ることができました

南冥の生涯と業績あれこれ

南冥は1743年に、現在の福岡市西区姪浜町で町医の長男として生まれています。
幼少期から詩文を学び、19歳で京阪に出て医学と儒学を修め、その後、荻生狙徠の古学を学んだそうです。

23歳で福岡城下の唐人町に移り、南冥と名乗るようになります。
宝暦の末年には亀井塾蜚英館を開設し、独自の教育方法で多くの人材を育成。
36歳で藩の儒者兼医師として抜擢され、後に藩主の侍講も務めています。

1783年には、西学問所甘棠館の教頭に迎えられ、150石を支給されましたが、朱子学を奉じる修猷館との対立や幕府の政策により職を追われ、晩年は失意の中で過ごしたようです。

1814年、火災で亡くなっています。
また、1784年には志賀島で発見された金印についての論文「金印弁」を著したとありました。

昭陽の後継と学統の継承

南冥の長子である昭陽は、父の学統を引き継ぎ、多くの門弟を育てました。
1836年、64歳で百道松原の百道林亭の学舎において亡くなりました。
昭陽の教育もまた、福岡の学問の発展に大きく寄与していたようです。

歴史的背景と個人的な発見

福岡市西区がどのようにして早良区になったのかを知ることで、地域の歴史に対する理解が深まりました。

現代の通勤スタイルと歴史的な場所を再発見することは、日常生活に新たな視点を加える素晴らしい体験ですね。

日々、関心を持たないとそこに何があるかすらわからない。
福岡生まれの福岡育ちなのに、本当に何にも知らんなぁと思うことしきり。

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